仕掛花火
今年も、後1ヶ月で豊田おいでんまつりがやってきます。
「おいでん祭り」の花火大会に当社が仕掛花火を協賛するようになって、今年で15回を数えます。
昭和53年の夏でした。
おいでん祭りの前進、「豊田まつり」に花火が打ち上げられることを知りました。
当時の自分は、その年の1月に大きな負債を抱えて仕事に行き詰まり、再建と言うより生きるのに必死の状態でした。
朝、7時から、夜は11時頃まで毎日16時間労働で頑張っていました。
結果、その状態を約3年、1、000日続けました。
朝、1時間くらい展示車の洗車・8時頃から役所へ住民票などを取りに・9時に車の登録で、高岡の陸運支局へ・そして、10時に店を開ける。
夜は、店の裏で車の整備、その頃はすべて一人でまわしていました。
数万円の安い車ばかりでしたが、月に、10〜13台販売していました。
そんなんで、私は、家族と別々の生活をしていました。
緑区の自宅では、妻が9歳の長男・6歳の長女・3歳の次女の生活費からすべてをまかなっておりました。
当時35歳だった妻は、朝4時から牛乳配達・5時過ぎから新聞配達・一度家へ帰って子供たちを学校へ送り出し・スーパーでレジーのパート・スーパーを終えて・夕刊配達・・・
勿論、よそ様のように、おいしい夕食を囲んでのだんらんなんて、あろう筈もありませんでした。
夏休に家族揃ってレジャーなんて・・・夢にも描けない状況でした。
そんな時の、豊田祭りの花火大会でした。
子供に何もしてやれない自分として、「せめて花火を見せてやろう」と思いました。
その夜だけは、仕事を切り上げ、長男と花火見物に出かけました。
長男一人だったのは、全員が豊田へ来る”電車賃”が出せなかったのでした。
その当時の花火には、一玉、一玉提供者の社名、氏名がアナウンスされていました。
○X会社提供、○号玉・・・ヒュルヒュルーードーン・・・・・・・・・
矢作の堤防上の人込みの中で、一玉、一玉見上げておりました。
そのうちに、今でも脳裏から離れない、社名のアナウンスがありました。
「○○モータース提供・・・○号玉・・・ヒュル、ヒュルーードーン」
その花火を仰いだまま、歯を食いしばりました。悔し涙がほおを伝いました。
「ク・ク・・クッソウ!」
「見ておれ!!俺だって、いつかはきっと、花火を打ち上げたる!俺のは、仕掛花火だ”」
その後、祭りの呼び名が「おいでんまつり」に変りましたが、ルートの仕掛花火が、提供できたのは、その悔しい思いの昭和53年からから15年後の平成5年のことでした。
あれから、毎年欠かさず提供しつづけ今年で15回目となります。
今日、豊田煙火の青山社長と今年の仕掛花火について打ち合わせをしました。
今年も7月29日に、私の思いと、グループの夢を込めて、ユーズネットの仕掛花火に点火されます。


