中学校1年生の夏、山に登ろう・・・どうせ登るなら愛知県の最高峰に。
同級生をさそって登った茶臼山が、私の山の始まりでした。
中学2年生では、蓼科山へ登りました。
高校に入ってからは、毎週のように、鈴鹿の山へ行ってました。
その時のとても親しい仲間に、外山林生(とやま、しげお)君がいました。
高校時代から、私の山の半分には彼がいました。
彼とは、夜間大学もいっしょでした。
今からちょうど40年前のことです、当時私はカローラを売るセールスマンでした。
昭和42年 5月 2日・・・あの日も私は仕事をしていました。
その日の昼、食事の為、喫茶店にいました。
ラジオは昼のニュースの時間でした。
「白馬岳で、名古屋市職員山岳会のメンバー1人が、700メートル滑落・・・」
「外山林生さん・・・」と言う名前、そして「絶望ーー」とアナウンサーの言葉・・
自分自身、血の気が引いたのを今でも覚えています。
すぐ社に帰り、上司に事情を話し、今から白馬へ行きたいから休みをくれるよう頼みました。
上司の答は・「井上君が行けば、友達は助かるのか?」でした。
その日は何も手につきませんでした。仕事を終えたら誰がなんと言おうが、白馬へ行く・・・
ちょうど翌日からは3連休でした。
「林生(シゲオ)!俺が行くまで待っていてくれ!」
夜を撤して走りつづけ、夜が明ける頃には白馬の麓にいました。
残念ながら麓で・・彼の変わり果てた姿との対面になってしまいました。
現地で火葬されることになりました。
彼をのんだ「白馬」の里は、遅い桜が満開でした。
真っ青な空に、残雪の白馬岳がまぶしく光っていました。
彼を天に運んだ「けむり」と・・・・
我々山の仲間で歌ったあの「雪山賛歌」
・・・山よ、さよなら
・・・ご機嫌よろしゅう
・・・また来る時にも笑っておくれ
涙でくしゃくしゃになりながらの歌声が・・・
むなしく「白馬岳」に消えていきました。
あの彼が最後の「山行」へ行く時、私にアイゼン(雪や氷の上を歩く為の金具)を借りにきました。
冗談に、「おまえは死んでも、アイゼンだけは返してくれ」といって貸しました。
残雪多い早朝の白馬岳(2932m)〜小蓮華山(2769m)への尾根で、アイゼンを衣服に引っかけて、バランスをくずして滑落してしまったとのことでした。
俺のアイゼンで・・・何か自分が悪いことをしてしまったような・・・責任を感じてしまいました。
せめての償いのつもり、と、とても山を楽しむ気にもなれず、あの時から自分は山を止めることにしました。
それから16年経過して、40歳でまた山を再開しましたが、55歳で社内の反対とゴルフを始めることで再度、山を止めることにしてもう10年になります。
最近は山へ行きたいではなく、過去の山の懐かしさに浸ることがたびたびです。
実は今日、10年前に買った山の雑誌を見ていて白馬で亡くなった外山君を思い出してしまったのです。
私の二つ年下の妹は7年前に脊椎のガンで亡くなりました。
その妹が当時好きだった人が外山君でした。
私はその妹の思いをかなえる「キューピット役」を引き受けていたのでした。
その思いを知ることなく彼は帰らない人になってしまったのです。
この事にも、私は責任を感じていました。
亡くなった妹の思いもザックにつめて・・・・
彼の50回忌までにもう一度「白馬岳」に弔い登山をしようと改めて誓いました。